横須賀アーキテクチャー『開設150年を越える造船所 浦賀ドック』
『浦賀ドック』という通称で親しまれている浦賀の造船所跡地(現在は閉鎖)が今回の横須賀アーキテクチャーの標的です。
横須賀アーキテクチャー『日本造船史の起爆剤 浦賀ドック』
浦賀ドックは1853年のペリー来航にまで遡れる歴史有る造船所です。日本初の西洋軍艦の造船をはじめ近代日本の造船業を支えた由緒有る建築です。
現在のドック
現在は住友重機械工業(株)が所有していますが、すでに造船所としての役目は終了し、工場は閉鎖されています。閉鎖から年月も経過し、一部取り壊しも進んだことからユニークな建物の数も大分減少しました。当時はいくつもそびえ立っていた大型クレーンも今は姿を消しました。かろうじて残っている建家の大きなミントグリーンの屋根が当時を忍ばせます。大型の造船港に特有な建築で雰囲気があります。
造船史とこれから
そもそもの成り立ちは黒船のペリー来航に慌てた政府が日本初の洋式軍艦を造船した場所で、その後、浦賀船渠(うらがせんきょ)という会社が軍用艦等を多数製造していました。
現存するものは世界に4つしかないというレンガ積みのドライドックもここにあります。そのドックも現在はかろうじて残っていますが住重の方針次第では建家もろとも取り壊されるという噂も流れています。というのも2016年あたりから、なし崩し的に敷地内の建造物が姿を消し始めているからです。
これに対し住重は耐震構造の問題対処の一環だと説明しているが、造船所内でのイベントも許可が下りづらくなったという話を地元民からは聞くので、あながち取り壊しの噂には現実味があるのかもしれない。
ショッピングセンターやマンションが立つ・・という話もチラホラ耳に挟みます。
下部写真の壁面のレンガに注目。以前はさらに長くレンガの壁があったのですが、一部を残し取り壊されてしまいました。残されたレンガ積みの壁には耐震用と思われる補助具が横に貫かれています。
奥の古いクレーンは錆びて朽ち始めていますが、どこかファンタジックな、劇的な風景を作っています▼
当時の巨大クレーンの足下駄が寂しそうに立っている。手前には地上に降ろされた可動部も▼
浦賀ドックと世界の繫がり
浦賀ドックは、第一次インドシナ戦争時にフランス軍の戦艦修理港に指定され、フランス軍の戦艦が修理に訪れました。修理期間中に滞在する軍人の為にフランス人寮という宿舎も近隣にあったそうです。
浦賀の人々は戦後間もなくであったにも関わらず戦勝国であるフランス人達を手厚く持て成したといいます。
そんなフランス軍人の一人に浦賀で癒された青年がいました。彼は東南アジアでの厳しい生活の後に修理で浦賀に寄港します。つかの間の滞在でしたが浦賀で暖かく対応された彼の心には、いつまでも浦賀の人や風景がありました。帰国後、浦賀で自分が撮影した写真を見せながら息子達に何度も何度もその町のことを話して聞かせました。
そんな父の見た景色を見たい。町を知りたい。彼の息子は2016年に父の姿と思い出を胸に浦賀を訪れます。父の滞在した時代から60年以上も月日が流れていました。
それは世代を跨いだ再訪といってよいかも知れません。
フランス軍人の写真で当時の浦賀を振り返る「浦賀フランス写真展」が2016年に開催されました。息子さんは当時の父親が写した写真を持って浦賀を訪問することになったのです。
その模様や詳しい経緯等は主催者FBページをご覧下さい→「浦賀フランス写真展」
最後に・・
日本の造船はここ浦賀ドックから勢いづいたのは確かです。その歴史的事実と貴重さを住友重機械工業は担ってきました。町の興隆と共にそこで汗水を垂らしながら造船に携わった方々の残影を後世まで保存できたらどんなに素晴らしいでしょうか。
この近代の歴史を感じに浦賀を訪れて、是非、生で浦賀ドックを見て欲しいです。建築として非常に興味深いのはもちろん、消えかけた一つの時代の香りを微かに感じることができるでしょう。
浦賀を訪れたことがあるのに写真を取り忘れた方は、この記事中の写真は自由に使用して頂いて構わないので、是非ブログやSNSなどで住重「浦賀ドック」の貴重さ、素敵さを友人達に知らせて欲しいと思います。
ブロック塀の向こうの浦賀ドック
西口正面玄関に凛として佇む▼
最盛期には定時になるとこの出入り口から蜘蛛の子を散らすように工員たちが街へ、飲み屋へと溢れていったそうだ。
横須賀アーキテクチャー 『日本造船史の起爆剤 浦賀ドック』by どこすか.com (www.dokosuka.com)
SPONSORD LINK ・ 半島情報呟いてます。フォロー喜びま〜す↓
コメントを残す